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淀川の歴史

淀川が流域にもたらした恵み

■まちとまちを結び、人や物を運ぶ大動脈・淀川

鉄道や自動車道が発達するまで、人や物資を大量に運ぶ役割を担っていたのは船でした。淀川は、古代から近世にかけて、京都と大阪を結ぶ唯一の航路であり、いわば現代の高速道路のように、人や物の往来が盛んな物流の基盤となっていました。

淀川で運ばれたもの

大阪の発展は淀川の舟運とともに
淀川は、奈良・平安時代には、遣唐使が都から出発する際に通行するなど、東アジア各地へと繋がる交通路として、国や地域間の物流や交流を支えてきました。 また、江戸時代には、大阪は「天下の台所」として栄えました。縦横に流れる川が、物流ネットワークとして機能し、淀川沿い(現在の大川・中之島付近)には、諸藩の蔵屋敷が建ち並びました。全国から大阪に集まった物資や物産は京の都へ、都の文物は大阪へと運ばれました。塩や酒に加え、年貢米、木材、全国各地の特産物といった貴重な物資の輸送路として活用された淀川は、経済の大動脈としての役割を果たしていました。

江戸期の三十石船と明治期の外輪船(蒸気船)
江戸時代、淀川には、大阪と京都・伏見を結ぶ交通手段として旅客専用の三十石船が登場しました。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれたこの船は、全長約17m、乗客定員約28人で、曳き船が必要な上りは約12時間、川の流れに乗れる下りは約6時間で大阪と京都・伏見を結びました。三十石船は、スピードが売り物で、最盛期には、「早上り三十石」「早船三十石」と呼ばれ、上り下り合わせて一日320便、およそ9000人が往来したといわれています。その旅客に、「飯くらわんか、酒くらわんか」などと叫びながら近づき、酒や食べ物を売っていたのが「くらわんか船」で、その荒っぽい河内弁は、淀川の名物でもありました。(「くらわんか」とは河内弁で「食べませんか?」のことです。)
明治時代に入ると蒸気機関を備えた外輪船が導入され、貨物や旅客の輸送量が飛躍的に増加しました。外輪船は最盛期には14隻が就航し、大阪・八軒家(天満橋付近)と京都・伏見の間を、上りは6時間、下りは3時間半で結びました。

三十石船に漕ぎ寄せる、くらわんか船(安藤広重画)(財)アダチ伝統木版画財団提供 淀川を航行する外輪船

川沿いに発展したまち
江戸時代、淀川の恩恵を受けて、淀川両岸のまちが発展していきました。
当時の船の航路となっていた伏見から大阪・八軒家まで、左岸側に京街道、右岸側に西国街道などがあり、街道沿いは宿場町として発展しました。伏見は、京都の入り口であり、京都・奈良・大阪を結ぶ水路・陸路の要、城下町として機能していました。京都と大阪のほぼ中間点にある枚方は、淀川舟運の中継港、また京街道の宿場町としてにぎわいました。

八軒家(大阪・写真左)と伏見(京都・写真右)資料:「淀川両岸一覧」淀川資料館
淀川両岸に形成された主なまち
■人々の暮らしに密着していた淀川

淀川は流通や交通のインフラとしてだけではなく、農業用水や生活用水としても利用されていたほか、川そのものの存在が精神を潤し文化を育む場となっていました。
毛馬村(現大阪市都島区)出身の俳人で画家の与謝蕪村をはじめ、淀川は多くの詩歌に詠まれてきました。また、10世紀半ばの神事が起源といわれる天神祭も淀川を舞台に繰り広げられ、現在に至っています。

淀川が育んだ人々の精神と文化
古来より淀川周辺は、豊かな自然に恵まれ、そこに暮らす人々にとって淀川は、彼らの精神と文化を支える大きな存在でもありました。そのため、物語の舞台になったり、また和歌や俳句の歌枕等に数多く詠まれたりしています。
古くは万葉集や新古今和歌集に淀川が登場しています。現在の大阪市淀川区にある姫島の地で詠まれた「妹が名は千代に流れむ姫嶋の子松が末に苔むすまでに」という万葉集にある晩歌は「君が代」の本歌になったとも言われています。また、淀川を舞台に詩をいくつも残した江戸時代の俳人与謝蕪村が、故郷である毛馬村を想い詠んだ「春風や堤長うして家遠し」という句は、現在も毛馬地区の淀川堤防上にある石碑に刻まれています。

淀川流域を舞台に詠まれた詩歌例
「洗い衣取替川の川淀の淀まぬ心思ひかねつも」(『万葉集』)
「見わたせば山もと霞む水無瀬川ゆふべは秋となに思ひけむ」(後鳥羽上皇『新古今和歌集』)
「朝霧や難波を尽くす難波橋」(与謝蕪村) 「やぶ入りや浪花を出て長柄川」(与謝蕪村)

毛馬関門の近くに設置されている与謝野蕪村生誕地の石碑

水を商った「水屋」
大阪市で上水道が通る明治28年(1895年)まで、大阪の人々は飲用水として淀川の水を飲んでいました。毎日の水汲みは大変な仕事であったため、「水屋」という水売り業者が活躍。「水屋」は水船を出して淀川から汲んできた水を街中で売り歩きました。

天下の台所を支えた三大市場
水上交通に恵まれた大阪の物流の中心は、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市場で、これらは近世大阪の三大市場といわれます。
堂島には当時の物価の基準となっていた米を商う市場が開設され、全国の年貢米が集積しました。京橋南詰で開かれていた青物市場は1653年に天満に移転。近郊農村から多くの野菜などが船で運び込まれました。魚市場も17世紀後半に、船場から荷揚げに便利な雑喉場に移りました。雑喉場魚市場には近海はもとより四国・九州からも多くの魚が運ばれ活況を呈しました。

大阪の三大市場

豊かな漁場だった淀川
淀川では昔から漁業が盛んで、雑喉場魚市場は、もともと野田や福島の漁師たちが小魚を商っていたところでした。淀川にはほかにも多くの漁師がいて、河口の汽水域ではコイやフナ、ウナギなどを獲っていました。ハマグリやシジミ漁も盛んでした。

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